新しくなった「姫路城」を見に行ってきました~姫路城 天守閣(上)~

 8月5日(水)、兵庫県姫路市にある「姫路城」に行ってきました。

 「姫路」駅を出ると、通りの向こうに姫路城が見えました。

姫路城(1) 姫路城(2)

姫路城(3)

 歩くこと約10分で姫路城に到着。

姫路城(4) 姫路城(5)

「姫路城大手門と桜門橋

 姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高くかつ厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。また、大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19(2007)年に築いたものです。」

姫路城(7) 姫路城(8)姫路城(6)

 一度、姫路城に来たことがありまして、門を入ると前に来た時のことを思い出しました。

姫路城(9) 姫路城(10) 姫路城(11)

「 姫路は、古代には播磨国府が置かれ、中世には府中として守護の拠点となりました。姫路城は府中に築かれた城で、築城は14世紀まで遡るという説もありますが、やはり16世紀中頃に黒田重隆・職隆父子が、御着城の端城として築いたとみるべきでしょう。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉は播磨国を平定すると、織田信長の命令により姫路城を築きます。このとき、三重天守をもつ石垣造りの城郭となりました。城の周囲には家臣が集住し、商人を移住させて城下町も整備されました。
 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の戦功で播磨国を与えられた池田輝政は、城を大改修します。羽柴時代の縄張りを踏襲しつつ、五重天守や高石垣を築き、規模も大きくしました。また、輝政は徳川家康の娘督姫を妻としたことから、2人の間に生まれた男子は大名に取り立てられて淡路国や備前国が与えられ、池田一族の領地は約100万石にもなりました。その本拠が姫路城で、西国の豊臣恩顧の大名をけん制し、豊臣秀頼の大阪城を西側から包囲する役割も期待されました。
 姫路城が完成するのは、池田氏のあと城主となった本多忠政の時代です。元和4年(1618)には西の丸を増築し、三の丸の御殿も整備しました。池田時代に頓挫した飾磨津と城下を結ぶ運河(三左衛門堀)計画が、船場用を改修することで実現できたのもこの時期です。その後、城主は松平氏、榊原氏など親藩や譜代の大名が歴任し、酒井氏のとき廃藩置県となりました。
 明治7年(1874)、旧城内には陸軍歩兵第十連隊が駐屯し、明治29年(1896)には第十師団が置かれることになりました。姫路は城下町から軍隊の町へと変わり、第二次世界大戦中は2度の空襲を受けました。城内にも焼夷弾が投下されましたが、城の建物に大きな被害はありませんでした。
 昭和6年(1931)1月、大天守、西小天守、乾小天守、東小天守とこれを結ぶ渡櫓が国宝に指定され、昭和31年(1956)、中濠以内107haが特別史跡に指定されました。平成5年(1993)12月には、日本で初の世界文化遺産に登録されました。」

姫路城(12)

 姫路城内部へのチケットを買って、城内へと向かいます。

姫路城(13) 姫路城(14) 姫路城(15) 姫路城(16) 

 その城内までへの道が長く、天守閣までの道のりには、多数の門をくぐります

姫路城(17) 姫路城(18)

 本当に多数の門をくぐり、ようやく天守閣に入ることができました。

姫路城(19)

 天守閣内では、様々な資料や展示物を見る事ができ、天守閣内部の構造や部屋などを見ることができました。

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「姫路城の総構

 近世の姫路城では、外堀と土塁が城郭全体を囲んでいました。これを総構といい、この内側が広い意味で姫路城ということもありました。総構の内側では、身分によって住む場所が決まっていました。町人は外曲輪に、武士は中曲輪、藩主は「御城」と呼ばれた内曲輪に住みました。そのうち、町人地を城下町といいますが、それを姫路町と総称することもありました。城下町のうち龍野町や野里町といった中世から続く古い町は、総構の外側に位置していました。また、城下町が整備された後に、材木町や鷹匠町のように総構の外側に新しく町ができたところもあります。
 この模型は、「姫路侍屋敷図」(酒井家時代)を参考に、総構全体を復元的に製作したものです。植生や現存しない構造物はすべて想像によるものです。」

姫路城(22) 姫路城(23)
 模型がありました。どうやら大修理工事の際につくられたものだそうです。
姫路城(26)

「軸組構造模型

 この模型は、昭和の大修理工事の際に大天守の解体修理のため実物の1/20で製作されました。
 昭和の大修理工事は史上初めての全解体修理だったので、歴史的建造物のもつ技術的特徴、あるいは構造上の欠陥や細部の処理、そして組み立ての方法をしっかりと把握した上で施工しなくてはなりませんでした。さらに、建物を末永く維持できるように、破損・腐朽部分の取り替えや各部材の補強方法の検討も不可欠でした。さまざまな問題を明らかにし、安全で効率的な工事を行うための検討用に製作された模型です。」

姫路城(27)
 城内では、資料や関連モノ、パネル展示などがありました。

姫路城(28) 姫路城(29) 姫路城(30) 姫路城(31)

(続く)

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