芝地区旧町名由来版「横新町、通新町、田町」と「札の辻」

 田町三田(東京都港区)で、芝地区旧町名由来版横新町 通新町 田町」と「札の辻」を見かけた。

芝地区旧町名由来版

横新町
 むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。町の起立の年代は不明ですが、田町大通りに町屋が起立した後に家が建ちはじめ、通新町の横町にあたるので横新町と呼ばれるようになりました。町屋となった後もしばらくは代官支配が続きましたが、寛文2年(1662)に町奉行支配となりました。

通新町
 むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。江戸時代のはじめに町家が建ちはじめ、町となった後も代官支配が続きましたが、寛文2年(1662)、町奉行支配となりました。三田通りが町の南北を貫き、田町開設の後に新たに開けた町であることから、通新町と称されるようになったと伝えられています。明治5年(1872)、久留島安房守上屋敷および付近の土地を合併して、通新町となりました。

田町
 むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。芝浦の渚に近い田畑が町家と変わっていったので芝田町と称されるようになりました。寛文2年(1662)、町奉行支配となって一丁目から九丁目に分けられ、安永5年(1776)には海を埋め立てて町域を拡げました。明治5年(1872)、武家屋敷だったところや寺社地を合併しました。江戸の頃は、東海道を行き来する人々でにぎわい、諸大名の浜屋敷が多くあったところです。

札の辻

 江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて、布告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和2年(1616)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門」といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。
 その後高札場は、天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永7年(1710)に、芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。

昭和52年1月(平成17年12月建替)
港区教育委員会


(2017年7月14日現在)

JR「田町」駅、都営浅草線「三田」駅から歩いて約5分。