桜の通り抜け

4月2日(日)、大阪造幣局(大阪府大阪市)で桜の通り抜けに関する説明板を見かけました。

「通り抜け」のご案内

 造幣局の所在地であるこの辺りは、昔から景勝の地として名高く、春は桜、夏は涼み船、秋は月などと四季おりおりの賑わいをみせ、特に春には、対岸を桜の宮と呼ぶにふさわしく、この地一帯に桜が咲き乱れていたそうです。
 造幣局の桜は、明治の初め、藤堂藩の蔵屋敷(現在、重要文化財に指定されている泉布観の北側)から移植されたもので、品種が多いばかりてなく、他では見られない珍しい里桜が集められていました。
 明治16年(1883年)、当時の造幣局長遠藤勤助の「大阪市民の皆さんと一緒に花見を楽しもうではないか。」との発案で、混雑緩和のため一方通行にして一般に開放することとなりました。
 これがいつしか「通り抜け」と呼ばれるようになり、今日までの永きにわたり大阪市民をはじめとした多くの皆様に親しまれ、「大阪に花の里あり通り抜け」(本田渓花坊作)と詠われるように愛されています。
 現在ここにある桜は、関山・松月・普賢象・黄桜・楊貴妃などの八重桜が主です。
 なかでも、大手毬・小手毬などは造幣局以外ではめったに見られない珍種といわれています。
 もともと、桜は煤煙や塵埃などで汚染された環境の中では育ち難く、特にここにある品種は生育が困難とされていますので、専門家の指導を受け、できる限りの手入れに努めています。
 どうか皆様、大阪の名所「通り抜け」の桜を今後とも末永く保存するため、可愛がってください。

造幣局

通り抜けの由来

 造幣局の所在地であるこの一帯は、昔から景勝の地で、春は桜、秋は月、夏は涼み船等四季折々のにぎわいを見せ、特に春の桜は有名で、対岸を桜の宮と呼ぶにふさわしく、この一帯に桜が咲き乱れていたといわれている。
 造幣局の桜は、明治の初めに藤堂藩の蔵屋敷から移植されたもので、品種が多いばかりでなく、ほかでは見られないめずらじい里桜が集められていた。明治16年、ときの造幣局長遠藤謹助氏の「局員だけの観桜ではもったいない。大阪市民の皆さんと共に楽しもうではないか」との発案から満開時の数日間構内の桜並木を開放することとなったが、花見客の混雑緩和のため一方通行としたので、いつしか「通り抜け」と呼ばれるようになった。以来、大阪人のねばり強い郷土愛に支えられ今に続く花の里である。
 さくらの名所百選の地に選定されたことを機に、ここに通り抜けの由来を記す。

平成2年春
造幣局長 赤倉啓之」

(2017年4月2日現在)

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