神田明神下御御臺

神田

 神田(東京都千代田区)を歩いていたら、こんな歴史紹介板を見かけました。
 神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍寺や万隆寺などが軒を連ねる寺社地だったそうです。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦3年(1657年)1月18日に発生した「明暦の大火」(振袖火事)。
 「明暦の大火」は、およそ2日間にわたって江戸の町全体の6割ほどを焼き尽くし、10万人余りの命を奪った大災害となったそうです。この時、江戸城も天守閣をはじめ、多くの建物を焼失。被害の甚大さに驚いた江戸幕府は、火に強い町づくりに乗り出しました。幕府の火災対策の一つとして「延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる」という方針があり、かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新方針に沿って城内の御臺所御賄方の武家屋敷として再建されたといいます。御臺所町という旧地名は、この時に始まるものと考えられているそうです。
 さらに寛文12年(1672年)、この場所に住んでいた武士達の希望もあって町内に「町屋」(証人と職人の住まい)も形成されました。以降、御臺所町は町人の町として発展をとげることになったそうです。文政7年(1824年)の『江戸買物独案内』には、町内に足袋屋や呉服屋、小間物屋があったことが記されています。時代が下って明治2年(1869年)には、神田明神下御賄手代屋敷を合併し、神田臺所町と呼ばれるようになりました。
(2014年5月24日現在)

[autoviewer=440]

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする