葛飾柴又の寅さんの町が国の重要文化的景観に!

 東京の葛飾柴又(東京都葛飾区)、映画「男はつらいよ」の寅さんの故郷で有名ですね。今年のゴールデンウィーク(5月)に、その葛飾柴又を観光してきました。

 帝釈天には多くの人が来ていました。

 葛飾柴又 寅さん記念館では、寅さんに関する様々な展示が楽しめました。

映画「男はつらいよ
舞台はなぜ葛飾柴又に?
 葛飾柴又「帝釈天」の参道でくるまやという団子屋を営むおいちゃんとおばちゃん夫婦。主人公の寅次郎には母親の違う妹がいる。毎度フーテンを決め込む寅次郎がたまに故郷に帰ると、なぜかまわりの人を巻き込んで騒動が持ち上がる。という設定で始まった寅さんシリーズに欠かせなかったのが、寅さんを取り巻く心温かい隣人たちと人情豊かな下町の情緒でした。
 山田洋次監督とスタッフは、ドラマの設定にピッタリの場所をもとめて東京近郊のあらゆる候補地をロケハンしました。しかしイメージどおりの場所はなかなか見つからず、半ば諦めかけたある日やっと辿り着いたのが葛飾柴又でした。

葛飾柴又は豊かな自然と
暖かい心が通い合う街
 東京の北東部、江戸川のほとりに位置する葛飾柴又は、水と緑と下町の風情あふれる街並みが調和した門前町です。参道の突き当たりにあるのが江戸時代に創立された「帝釈天」。正式名称は経栄山題経寺といい、厄除け、延寿、商売繁盛等に霊験あらたかとのこと。
 帝釈天の先にあるのが、大正末期から昭和の初期にかけて建てられた「山本亭」。書院造りの和室とモダンな洋間が調和した美しい邸宅です。緑あふれる典型的な書院庭園が訪れる人の目を楽しませてくれます。
 裏手の江戸川堤防をやっと登り切ると出迎えてくれるのが川面を吹き抜けるさわやかな風。このあたりは葛飾区が「柴又公園」として整備したエリアです。河川敷で野球に興じる子供たちの歓声の先に見えるのが「矢切の渡し」。伊藤左千夫の名作『野菊の墓』の一場面、二度と逢うことのない恋人たちが別れていった哀しみの舞台としても知られています。遥か対岸に広がる松戸市や市川市の丘陵地帯の眺望を楽しみながら流れをさかのぼれば、都内で唯一水郷の風情を味わえる「水元公園」があります。
 そして知る人ぞ知る、「柴又七福神」も見逃せません。良観寺(宝袋尊)から観蔵寺(寿老人)までの7寺を、徒歩一時間足らずで一気に巡ることができます。

葛飾柴又は日本人の心のふるさと
 山田洋次監督は、寅さんシリーズをはじめこれまで手懸けてきた数々の名作を通じて、日本の豊かな自然とそこに住む人々の温かい心を丹念に描き続けてきました。それは私たち日本人にとって、大切でありながら忘れかけていたもののひとつでした。山田洋次監督は、永年探し続けてきたものを葛飾柴又で見つけたのです。
(案内より)

 葛飾柴又 寅さん記念館の構成は、

1:ファサード:寅さん自身が館名の看板文字を取り付け中! 増したの床面には、ホラ、あの雪駄の片方が…。
2:プロローグ「男はつらいよ」の世界:山田監督をはじめ、撮影、照明、録音、名九段度映画製作の現場スタッフを紹介。監督が使ったメガホン・デッキチェアーなども展示。
3:撮影スタジオ「柴又帝釈天参道」:寅さんの少年時代から、放浪の末、故郷柴又へ舞い戻るまでの物語を、妹さくら(倍賞千恵子さん)のナレーションと共に、可動式のジオラマでたどることができます。
4:撮影スタジオ「くるまや」:実際の撮影に使用した「くるまや」のセットを大船撮影所から移設。この「くるまや」で撮影した数々の名場面を見ることができます。
5:記念撮影コーナー<有料>:寅さんと一緒に記念写真が撮れるのは日本中でココだけ! 一生の記念になること請け合いです! お好きな背景で「ハイ、ポーズ!」
6:撮影スタジオ「朝日印刷所」:タコ社長の朝日印刷所を再現。寅さんと博、タコ社長や労働者諸君との名場面が思い起こされます。本物の活版印刷機も展示され、簡単な印刷体験も楽しめます。
7:「くるまや」模型:寅さんの実家「くるまや」は意外と広いんですよ。寅さんがお昼寝をしている間にこっそりのぞいてみましょう。
8:選択映像コーナー「名場面集」「寅さんのマドンナたち」「Q&A」:マドンナのプロフィール、名場面やクイズをお楽しみ下さい。
9:「わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です」コーナー:昭和30年代の帝釈天参道の街並みを遠近法を用いて、精巧に再現。寅さんを探す楽しい仕掛けも。
10:思い出に残るなつかしの駅舎:駅員が切符を切っていたj台の駅舎を再現。人々の心通う温かさを感じるなるかしの駅舎です。
11:帝釈人車鉄道への旅:「帝釈人車鉄道」の客車を再現。客車に乗って記念写真を撮ったり、人車の楽しいエピソードもご紹介。
12:寅さんが愛した鈍行列車の旅:鈍行列車の向かい合わせの客車を再現。見知らぬ人と世間話をし、心を通い合わせる旅が好きだった寅さん。車窓には旅の名場面や啖呵売が映し出されます。
13:資料展示コーナー:寅さんの衣装・トランク、撮影台本を展示。
14:「寅さん」そっくりの埴輪(複製)/寅さん星になる
15:エピドーグ「男はつらいよエンディングコーナー」:歴代のマドンナ全員集合! 壁面にコラージュされた写真と登場シーンの映像で紹介。
16:光庭:吹き抜けの中庭には、全ロケ地を焼き付けタイルで地図化。
(案内より)

 そんな寅さんの町に、ゴールデンウィークに行ってみると、なんと、葛飾柴又は国の重要文化的景観になっていて、ビックリしました。

今も息づく古からの柴又情緒
 「寅さん」の故郷として全国的にも名が知られている葛飾柴又。その柴又の地名は、古くは「嶋保(「しまほた)」と書き、奈良時代までさかのぼります。奈良東大寺の正倉院に伝わる「養老五(721)年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」と呼ばれる奈良時代の戸籍には「嶋俣里」の名が見え、「嶋俣里」には男女合わせて370人が暮らしていたことが記録されています(大島郷全体では1,191人)。「嶋俣」の地名の起こりは、川が分流したり合流したりする場所を「俣(また)」といい、そのような場所ゆえ土砂が堆積して島状の高まり(=微高地)を形成する、この地の特徴的な地形環境から地名が誕生したものと考えられています。

 江戸時代、近世都市江戸の東郊に位置する隅田川以東の葛飾地域は、近郊の行楽地として多くの江戸庶民の憩いの場となっていました。この地域が庶民の行楽地として成立する要件のひとつは、江戸との距離感にあります。葛飾柴又は江戸城から約14kmの位置にあり、江戸の人々が日帰りで気楽に行楽に出かけられる場所でした。柴又帝釈天として親しまれている帝釈天題経寺は、経栄山と号する日蓮宗の寺院で、創建されたのは寛永6(1629)年といわれています。安永8(1779)年に、所在不明となっていた日蓮上人自刻と伝わる板本尊が発見され、その日が庚申との結縁となりました。
 信仰とともに、この地域の景観も江戸の人々を魅了したようです。江戸の人々は、この地域の鳥や草花などの自然や、川辺の風景の素晴らしさがあると書き残しています。江戸という大都市に暮らす人々は、現代の私たちと同じように、都市生活の日常のストレスから癒しを求めるためにも、この地域の景観を愉しみ、寺社や名所を訪ねながら行楽を行っていたのです。

 近代以降、近代化という豊かさを求めて開発が進められ、江戸の人々に愛された景観は次第にその姿が失われていきます。こうした中、葛飾では、花菖蒲が咲き誇る堀切菖蒲園や広大な水郷景観を誇る水元公園など、江戸の面影や情緒を今に伝えています。そして、柴又は、江戸川に抱かれ、柴又の鎮守柴又八幡神社、古刹真勝院、帝釈天題経寺を支えてきた旧家の佇まいを残し、昔ながらの信仰と生業、参道の街並みや賑わいなどが今も息づいています。文学者も乱鼓を打った料理屋で膳を飾る鰻や鯉などの川魚料理、参道で売られる草団子や煎餅など、江戸の昔から親しまれてきた名物も、葛飾柴又の行楽地としての魅力を今なお際立たせています。

重要文化的景観「葛飾柴又の文化的景観」の価値
 葛飾柴又の文化的景観は、古代から続く人々の生活や往来を全体の基底としながら、近世初期に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前の景観を中心に、それらの基盤となった農村のかつての様子を伝える景観がその周囲を包み、さらにその外側を取り囲むように、19世紀以降の都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備の歴史を伝える景観が広がっている。それぞれの景観区域の内部をつなぎながら、外部にも接続する水陸交通施設が現存するほか、消滅してしまったものについても多くの痕跡を確認することができる。葛飾柴又は、地域の人々の生活、歴史、風土などによって形成された景観地であり、わが国民の生活・生業の理解のため欠くことのできないものであることから、重要文化的景観に選定して保護を図るものである。(文化庁文化財部監修『月刊文化財』653号より抜粋)
(案内より)

 葛飾柴又 寅さん記念館では、国重要文化的選定記念パネル展葛飾柴又今昔物語」がありました。

国重要文化的選定記念パネル展
葛飾柴又今昔物語

 江戸時代、近世都市江戸の東郊に位置する隅田川東岸の葛飾地域は、江戸近郊の行楽地として、多くの江戸庶民の場となっていました。この地域が江戸庶民の行楽地として成立する要件のひとつは、江戸との距離にあります。距離的に、葛飾柴又は江戸城から約14kmの位置にあり、江戸の人々は日帰りで気楽に行楽に出かけられる場所でした。
 柴又帝釈天として親しまれている帝釈天題経寺は、経栄山と号する日蓮宗の寺院で、創建されたのは寛永6(1639)年といわれています。安永8(1779)年に、所在不明となっていた宗祖日蓮上人自刻と伝わる板本尊が発見され、その日が庚申だったことから縁日と定め、帝釈天題経寺と庚申との結縁となりました。

 信仰とともに、この地域の景観も江戸の人々を魅了したようです。江戸の人々は、この地域の鳥や草花などの自然や川辺の風景の素晴らしさを諸書に書き残しています。江戸という大都市に暮らす人々は、現代の私たちと同じように、都市生活の日常のストレスから癒しを求めるためにも、この地域の景観を愉しみ、寺社や名所を訪ねながら行楽を行っていたのです。
 近代以降、開発が進み、近代化という豊かさを求めてきたことで、江戸の人々に愛された景観は次第にその姿が失われていきます。こうした中、葛飾では花菖蒲が咲き誇る堀切菖蒲園や広大な水郷景観を誇る水元公園などの水辺環境に江戸の面影や情緒を今に伝えています。そして、葛飾柴又は、江戸川に抱かれ、柴又の鎮守八幡神社、古刹真勝院、帝釈天題経寺を支えてきた旧家の佇まいを残し、昔ながらの信仰と生業、参道の街並みや賑わいなどが今も息づいています。文学者の乱鼓を打った料理屋で膳を飾る鰻や鯉などの川魚料理、参道で売られる草団子や煎餅など、江戸の昔から親しまれてきた名物も、葛飾柴又の行楽地としての魅力を今なお際立たせています。

 柴又の景観は、地元柴又の人々が古より育み、そして、後世へと伝えていくべく大切に守ってきた景観です。平成30年2月13日、その歴史的・文化的価値が評価され、伝統的な情緒や雰囲気を継承する地域として、「葛飾柴又の文化的景観」が都内初(関東で2件目)となる国の重要文化的景観に選定されました。
 この選定を記念して、葛飾柴又の“今”と“昔”の風景の写真を展示いたしました。この機会に、葛飾柴又の風景の今昔を見比べていただき、時代の急激な変化と開発の中で、“変わらない”ことを大切にしてきた葛飾柴又の文化的景観を構成する諸相の風景を写真を通してご覧いただき、そして、葛飾柴又の魅力を感じていただければ幸いです。

【葛飾柴又の景観形成】
 葛飾柴又の景観の舞台を成すものは、東西方向に発達した微高地と、それを取り巻く低湿地、そして、東側を流れる江戸川という風土です。柴又は、江戸川の河床の浅さゆえに渡河地点となり、水陸交通が交差する要衝の地として機能してきました。そして、嶋状の微高地は古くから居住地や畑地となり、低地には水田が広がる景観を呈してきました。
 寛永6(1629)年は、嶋状の微高地の東、江戸川沿いに帝釈天題経寺が開基され、安永8(1779)年の帝釈天板本尊の発見以降、江戸庶民も訪れる参詣地として隆盛し、信仰とそれに伴う商いによる賑わいをみせていきます。
 明治以降は、常磐線金町駅の開業や人車鉄道の開設、大正元年の京成電気軌道株式会社(現在の京成電鉄株式会社)の運行開始により参詣客が増加します。次第に門前の街並みも整えられ、東京近郊の行楽地として、今日見られる参道景観が形成されていきます。
 それ以降も、柴又の景観は、大正4(1915)年からの江戸川改修工事に伴う河川敷の住居・田畑等の堤内への移転や、大正15(1926)年の金町浄水場の開設、昭和初期の耕地整理、戦後における都市化の進行など、時代の流れの中で変貌を遂げつつもその個性を保ち続け、映画『男はつらいよ』の舞台となり全国的にその名を知られるようになりました。

葛飾柴又の旧景1 江戸川沿いの風景
 葛飾柴又を近代の文学作品の中に登場させたのは、寺田露伴が明治38年に発表した『付焼刃』が最初だと思われます。この作品では、清らかな江戸川とこの水面を行き来する帆掛船、冬枯れした水際の蘆荻と堤を飾る雑草、川甚という川魚料理屋、帝釈天や端艇(カッターボート)、矢切の渡しなどが登場し、初冬の柴又の水辺の風情を描写しています。
 この作品で注目されるのは、露伴は柴又周辺の江戸川の風景をただ羅列的に紹介するのではなく、川魚料理屋の座敷からの眺望という設定で江戸川の風景描写をしていることです。この手法は、その後の夏目漱石や谷崎潤一郎、獅子文六などの文学作品などにも継承されていきます。
 最近の調査で、幸田露伴や夏目漱石が柴又を訪れ、柴又を舞台とした文学作品を書いていた頃の江戸川沿いや帝釈天題経寺周辺の風景写真が発見されました。

葛飾柴又の旧景2 帝釈天題経寺の構え
 柴又帝釈天として親しまれている題経寺。安永8年に、所在不明となっていた日蓮上人自刻と伝わる板本尊が発見され、その日が庚申だったことから縁日と定め、題経寺と庚申の結縁となりました。天明2~8(1782~88)年に起こった天明の飢饉の時には、当時の住職がこの板本尊を背負い、飢饉に苦しみ疲弊した江戸市中をめぐり教化につとめたことから信仰が江戸市中に広まり、60日ごとに訪れる庚申の日には、当時流行していた庚申信仰ともあいまって、江戸市中から多くの参詣者が帝釈天題経寺に集うようになりました。特に、庚申前夜の宵庚申には、格別の賑わいを見せていました。

 近代以降、伽藍も整えられ、明治29(1896)年に二天門が落慶し、参道から二天門越しに見える帝釈堂の内殿が大正4(1915)年、拝殿が昭和4(1929)年に完成して現在のような構えとなりました。昭和30年、終戦10年目の節目として平和に祈りを込めて大鐘楼が完成し、落慶供養が執り行われています。

紡がれてきた葛飾柴又の風景
 「葛飾柴又の文化的景観」は、帝釈天題経寺や矢切の渡し、参道の街並みだけが注目されがちですが、柴又の鎮守八幡神社や古刹真勝院、そして帝釈天題経寺を守り支えてきた人々によって今日の葛飾柴又の景観が育まれ、受け継がれてきたのです。

葛飾区産業観光部観光課・葛飾柴又寅さん記念館
(案内より)

 柴又駅前では、寅さんの銅像だけではなく、妹・さくらの銅像も設置されていました。