神田神保町三丁目

神田神保町三丁目

神保町から九段下へ向かっている途中で、千代田区町名由来板「神田神保町三丁目」(東京都千代田区)を見かけました。

 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねていました。古文書や古絵図をひもとくと、石川摂津守、井上遠江守、丹波園部藩小出家の上屋敷といった名前が見てとれます。
そんな武家のなかでも、朝廷や公家に関連する儀式などを担当した高家旗本の今川家は、ひときわ目を引く存在だったようです。屋敷前の通りは今川小路と呼ばれ、明治5年(1872)には、この小路の名前から、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目という町も生まれています。
また、日本橋川に架かる「俎橋」は、江戸時代はじめのことから伝わる名前です。当初、まるで○のような木の板を渡しただけの橋であったころから、この名前が付いたとされています。
そんな俎橋周辺について、森鴎外の小説「雁」のなかにこんな一文があります。「今川小路の少し手前に御茶漬という看板を出した家がその頃あった。二十銭ばかりでお膳を据えて、香の物に茶まで出す。末造はこの家を知っているので、午は食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。そこを通り過ぎると、右へ廻って俎橋の手前の広い町に出る。」
江戸時代には武家地だったこのあたりも、明治時代後半には活気あふれる商業地に生まれ変わり、いまの町の原型が形づくられていきました。
昭和9年(1934)、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目の一部が合併して神保町三丁目となり、昭和22年(1947)、神田神保町三丁目となりました。

(2015年3月30日現在)

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