伊藤左千夫牧舎兼住居跡

伊藤左千夫牧舎兼住居跡1

 錦糸町駅(東京都墨田区)で「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」を見かけました。

 この地には、明治時代の歌人で小説家のとしも活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治18年(1885)から、東京や神奈川の7か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治26年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治33年37歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治36年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治41年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
 この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治43年8月12日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正2年(1913)7月30日50歳で没しました。
 隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和58年(1983)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治41年10月『阿羅々木第一巻第一號』の『心の動き二』に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
 平成24年3月     墨田区教育委員会

(2016年9月26日現在)

伊藤左千夫牧舎兼住居跡2