欽明門と鉄柵

4月2日(日)、大阪造幣局(大阪府大阪市)で「欽明門」と「鉄柵」に関する説明板を見かけました。

「欽明門」について

 明治5年(1872年)5月から明治天皇が近畿・中国地方に行幸される際、近代様式貨幣工場の造幣局をご視察されることになり、6月4日京都御所を出発し、午後3時40分に造幣局の桟橋に到着され、上陸された場所にあったのがこの「欽明門」です。(現在地より北に約10mの地点にありました。)
 造幣局の地に第1歩を踏まれ、造幣寮行在所(応接所のちの泉布観)に入られ、翌5日午前8時、旧正門から金銀貨幣鋳造工場内をご巡覧されました。

「鉄柵」について

 明治元年(1868年)、当時大阪府知事であった遠藤象二郎が、大阪城内に動物園を作るためにイギリスから輸入された鉄柵でいしたが、中になるというのを聞きつけた造幣局判事久世喜代の進言により、造幣寮の取り締まりに必要不可欠のものであり、また、威厳保持のため、これを譲り受けたいと懇願し、井上馨の口利きで建設中の造幣寮に貰い受け、工場の周囲に張り巡らしたものです。
 鉄柵の先端にある《大》の字に似た文字は、当時の“大坂”の【大】の字をかたちどったものといわれています。

(2017年4月2日現在)