史跡小田原城跡「馬屋曲輪」

2017年5月6日(土)、小田原城(神奈川県小田原市)に行ってきました。
史跡小田原城跡馬屋曲輪」を見かけました。

史跡小田原城跡 馬屋曲輪

 馬屋曲輪は、L字型を呈する独立した曲輪である。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と兵を備え、土塁の上へと登る雁木(階段)は、二重櫓両側(写真1)と南側土塁(写真2)の位置にあった。
 この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。曲輪の規模は、東西四十七間(約92.59m)、南北三十七間(約72.89m)であった。
 曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と「大腰掛」の二棟の建物を中心に番所、切石を配した井戸などがあり、南東隅には二重櫓があった(図1)。「馬屋」と「大腰掛」は「板堀」により繋がっており、(円礫を用いた石列の位置)、発掘調査では、堀を境に表と裏では敷かれている石が異なっている様子が確認されている(写真3)。また、「住吉橋」の東に「住吉松」と呼ばれた名物のマツがあったが、幕末に失われた。
 なお、曲輪内にあるマツの内、四つ目垣のある老マツは古写真にも写る古木である(写真4)。

馬屋跡(うまやあと)・大腰掛跡(おおこしかけあと)
 馬屋曲輪の名前の由来でもある主要建物。古文書や絵図類を見ると、稲葉氏の時代には存在することがわかり、元禄16年(1703)11月22日の地震で発生した火災で焼失した。発掘調査でも、この時の火事の痕跡が明瞭に確認されている。
 西側の建物が「馬屋」、東側が「大腰掛」である。「馬屋」は、現存する彦根城の馬屋を参考にすると、およそ14頭の馬を繋ぐことができたと考えられる。「大腰掛」は、「大腰かけ御番所」とも呼ばれる登城者の待機所であり、江戸城の「百人番所」(東京都千代田区)、二条城の「二条在番」(京都府中京区)のように番所でもあった。いずれも、寛永11年(1634)の将軍徳川家光の上洛に際し、小田原城が宿所とされたために整えられた特別な施設と考えられ、小田原城の重要性がうかがわれる。
 なお、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった。

二重櫓櫓台(にじゅうやぐらやぐらだい)
 寛永20年(1643)12月26日付で、幕府より櫓新設の許可を経て作事が行われた建物である。絵図に描かれた二重櫓を見ると、雌雄の鯱瓦を乗せた上層の屋根は破風のない入母屋造り、下層は千鳥破風を伴う寄棟造りで、石落としを備えていたことがわかる。

切石敷井戸(きりいししきいど)
 円礫を積み上げた井戸で、表面は溶結凝灰岩の切石で装飾されていた。表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は、大陸より伝えられた特別な井戸とも言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。

(2017年5月6日現在)